クロユリハゼの休日

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#87 第二章「米国と戦場のあいだ」23歳まで

僕は大学まで片道2時間かけて通っていた。電車では〝朝日ジャーナル〟を毎週のように買って読んでいた。(のちに筑紫哲也が編集長になった。)〝朝日ジャーナル〟の巻頭コラムは一時期、経済学者の都留重人が担当していた。今でも覚えているのが、〝物価調整減税は減税ではない〟というコラム。

黒川創著『鶴見俊輔伝』第二章。この章では鶴見俊輔より10歳年上の都留重人が何度も登場する。二人はハーバードで知り合い、日米開戦時も大学に残った。僕が聴いた鶴見の講演でも、日米開戦前後の緊迫した状況での二人の意見交換の様子が印象的だった。(この時点で都留は日本の敗戦に言及していたという話だったと思う。)結局、鶴見はその後FBIに捕えられ入牢し、便器の蓋を机がわりに論文を書き大学に提出している。(大学は卒業試験官を留置場まで派遣して金網の中で試験を受けさせたという。)

開戦の翌年、鶴見と都留夫妻は帰国を希望して日米交換船に乗船した。日本が負けた時に日本にいるべきと鶴見俊輔は考えたのだった。鶴見は、新聞に掲載されたハーバード大卒業生名簿に鶴見俊輔の名を見つけたことを都留から教えてもらい、自身のハーバード卒業(哲学専攻)が確かであることを、知ったという。

この章の後半、日本に戻った鶴見俊輔は海軍の軍属として東南アジアで翻訳や通訳に従事するが、病気の為に日本に返され、1945年8月15日を熱海で迎えた。

 

つづく?(つづかないかもしれない。ハーバード大では世界的な学者のもとで、鶴見は猛烈に勉強している。)