この春以降、堺市に合併される前の旧美原町域の史跡や神社を断続的に観てまわっている。百舌鳥と古市の古墳群の間に位置し、大和王権や渡来系の技術集団との関わりを想像するワクワクが自分の中に少しずつ育っている。
〝丹比〟という、いかにも古代っぽい地名の集落が気になっていた。5月、丹比神社を訪れると、古墳時代の大王[仁徳天皇の皇子、のちの反正天皇]が産湯をつかったという伝承を示す石碑が建っていた。
この地域で勢力を持っていた丹比氏の首長の墓と考えられている黒姫山古墳の出土物を常設展示しているのが〝みはら歴史博物館〟。(4/4のブログ参照→#56 墳丘露出展示@黒姫山古墳)
この立派な前方後円墳は、戦後まもなくに末永雅雄・森浩一らによって発掘調査されて、一基の古墳としては全国最多の鉄製甲冑が発見されているそうだ(短甲だけでも24!)。出土埴輪と合わせた常設展示は壮観と言えるレベル。
今回、興味を引いたのはその出土状況だ。この古墳、竪穴式石室が前方部と後円部の二箇所で発掘されている。後円部は首長の埋葬、そして前方部の石室はどうやら鉄製武具専用施設なのだ。これはやはり、スペシャルだろう。
埋葬者が丹比氏だとして、軍事力を示したのか、鉄製武具をつくる技術力を示そうとしたのか。朝鮮半島からの渡来系集団だとして、大和王権のもとでその役割や地位はどのようであったのか。
そして、平安時代以降隆盛を誇った〝河内鋳物師〟とのつながりは。