クロユリハゼの休日

やま とり うた みる きく よむ うみ など

#137〝作善〟という行為

再び、ハルカス美術館〝奇才 …江戸絵画の冒険者達…〟展。(前回は#133 絵金の芝居絵屏風 https://kuroyurihaze.hatenablog.com/entry/2020/10/03/224139

土佐の絵金の他に注目したのが、狩野一信の〝五百羅漢図〟。f:id:kuroyurihaze:20201017161710j:image

徳川将軍家菩提寺である芝・増上寺に納められた全百幅の羅漢図(一信は96幅まで描いて亡くなり、残り4幅は妻と弟子が納めた。)は、10年程前に江戸東京博物館で全百幅が公開され話題となった。

今回は前後期でそのうちの6幅が展示された。以前、どこかで観た時は作品のグロテスクさに馴染めずあっさり通り過ぎたのだが、今回は惹きつけられて鑑賞した。ハルカス美術館の展示は、作品にかなり近い位置から細部までじっくり鑑賞できるのだ。f:id:kuroyurihaze:20201017161741j:image

〝五百羅漢図〟の何がグロテスクかというと、羅漢の顔の輪郭や表情が気持ち悪く、彩色もくすんだ感じ。なので、もし全百幅を続けて観たら吐き気がするかもしれない、と思っていた。

ところが今回至近距離で一幅ずつ観ると、細部まで実に丁寧に描きこまれているのが分かり、感心してしまった。一幅ごとのテーマやストーリーに沿って様々な工夫があり、新しい手法にも挑戦している。今回展示の作品には、月明かりをバックにした羅漢に思いがけない陰影法が使われており、特に目をひく。それに、百幅を目指して創作に打ち込んだ一信の精神力はいかほどのものだったのか。

 

監修の安村敏信氏が図録で〝作善〟について述べている。

 

狩野一信は、五百羅漢図製作にあたって〝作善〟という宗教的心情をバネに精神を集中し、質の高い創作を持続させたという指摘である。

〝作善〟という観点で見ると、あの伊藤若冲動植綵絵〟も全30幅を相国寺に納めるために創作をしている。一信も若冲も、宗教的心情や使命を感じて創作にあたり、質の高い作品群を遺した。そのことを〝作善〟、すなわち、宗教的対象に善を成す為の作業を怠りなく行うという言葉で表しているようだ。

 

音楽でも思い当たることがある。

 

例えば、バッハの〝作善〟。バッハは教会のオルガニスト・作曲家として、教会のため(神のため、信者のため)に音楽を創った。バッハの音楽は背後に数学的な調和や哲学的(神学的)な世界を感じる。作曲と演奏、この両者がバッハにとって〝作善〟ではなかったか。

 

ブルックナーの長大な交響曲。無数の音符を愚直に書き込んで重ねていく行為そのものに驚く。また、ブルックナーの音楽はメロディーをメロディーと感じさせない何かがある。俗っぽいリズムやメロディーが突然現れたりするのだが、俗に堕しないバックボーンが感じられるのだ。僕にはわからないが、神に対する誠実さのようなもの。これもブルックナーによる〝作善〟ではないか。

 

ヒトは宗教的心情によって、結果的に馬鹿なこともいっぱいするが、一信、若冲、バッハ、ブルックナーのように、常人には到達し得ない創造を生みだすこともある。

 

ヒトは具体の宗教的心情はなくとも、その心情に共感することがある。その共感力は、宗教的心情とは別物ではあるが、優劣なく近しいもののように思えるのだ。