先日、遊歩道を散歩しながら紅葉した落ち葉を拾っていた。(工作の素材を集めていた。)
道に積もった落ち葉を見ながら、ふと思い出したのが〝葉っぱのフレディ〟落ち葉を手にとって歩くうちに突然、この物語の意味が実感を持って心の中に降りてきた。
〝葉っぱのフレディ〟は、アメリカの哲学者バスカーリアが書いた唯一の絵本。〝青春〟や〝死別〟、〝生命〟や〝人生〟について四季の移ろいとともに考える物語。
その物語は、三善晃によって児童合唱を伴う全六章からなる合唱組曲〝葉っぱのフレディ〟として作曲されている。(作詩も三善晃)
〝春〟〝夏〟〝秋〟〝冬〟〝雪〟に続く終曲、〝やがて春〟が特に好きだった。
この合唱組曲を合唱団で歌うことになった年に、絵本〝葉っぱのフレディ〟を購入して読んだ。
今日、絵本と三善晃の詩を読んでみると、終曲の〝やがて春〟が絵本の核心を解釈し、表現していることにあらためて気づいた。
数年前にこの合唱組曲に取り組んだときは、絵本の理解が浅かった。主人公のフレディ、葉っぱに気を取られすぎていたと思う。散歩をしながら葉っぱばかりに気を取られていたのが、葉っぱを落とす側の〝木〟にも注目することで突然、腑に落ちたと言うか…。
木と葉っぱの関係性が…。絵本の最終部分、ここをしっかり読んでいなかった。
『〝いのち〟は土や根や木の中の 目に見えないところで 新しい葉っぱをうみだそうと 準備をしています。大自然の設計図は 寸分の狂いもなく〝いのち〟を変化させつづけているのです。』
↑どんぐりと小さな木の実、落ち葉でつくりました。葉っぱは乾燥するにつれ形(ポーズ)を変え、どんどん茶色になってきます。