クロユリハゼの休日

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# 259 劇団四季と浅利慶太

劇団四季のミュージカル〝バケモノの子〟を観てきた。(@大阪四季劇場)実は、一月にも観たので〝バケモノの子〟は2回目。2回とも、地元出身の青年(合唱団の関わりの中で小学生の時から知っている)が主役(蓮=九太)で出演する日を狙い撃ちで観てきた。

2回目なのでストーリーや展開がわかっていて、1回目には気づかなかった演者の様子やアンサンブルの工夫など、諸々の工夫が見え、テーマも浮き上がってくる。1回目より楽しめて、時間も短く感じた。

とにかく、演者や装置の動きが目まぐるしく、視覚や聴覚に入ってくる情報量がすごく多いし、伝わるメッセージもなかなかのものなので、3回目も行きたくなる、ホントに。海外ミュージカルの移入ではなく、劇団四季オリジナル。舞台が東京渋谷というのも功を奏していると思う。

〝バケモノの子〟の内容についてはさておき、

劇団四季についてちょっと振り返ってみる。

若い頃の記憶は二つ。

大学卒業の年にミュージカル〝コーラスライン〟を観たのが最初。余計な装飾を排したシンプルな舞台、シンプルな進行でダンサーを目指すアメリカの青年の姿を描いた。シンプルに感動した。

就職して、労演の会員だった先輩に誘われてかなり頻繁に新劇を観た。その中のひとつと思うが劇団四季で〝カッコーの巣をこえて〟(日下武史主演)を観た。これはセリフ劇で、まだこの頃は劇団四季は新劇の範疇に入っていたのかもしれない。

その後、労演からも劇団四季からも遠ざかっていった。(単発で井上ひさしが座付き脚本家の〝こまつ座〟などを観ていた)その間にあれよあれよという間に劇団四季は発展し、大都市の一等地に専用劇場を擁するミュージカル主体の巨大劇団に成長していた。

劇団四季創立者のひとり、浅利慶太は劇団発展の中心人物。彼は時の首相中曽根康弘のブレーンの地位に就いてたりしてなんとなく胡散臭い。そのことが僕を劇団四季から遠ざかる心理を働かせたようだ。ひと月ほど前、浅利慶太がどういう人だったのか気になって「劇団四季浅利慶太」という本を読んだ。(文春新書 2002年)f:id:kuroyurihaze:20240329233000j:image

その中で印象に残ったこと。

「役者が役者の仕事だけで食っていける劇団にする。」

その昔(今でも?)、新劇は役者の仕事だけでは生活できないのが普通だったようだ。浅利慶太は様々な上演機会を試行錯誤し経営戦略を追求していた。

芸術集団としても、役者のトレーニング法を構築し組織していく。

「日本語がしっかり伝わる発声法をトレーニングする。」

時に〝四季節〟と揶揄されて憤慨する浅利慶太の姿があったという。この発声法は現在のミュージカルでも活かされているようだ。〝バケモノの子〟を観ても、子役も含めて全ての演者のセリフと歌が聴き取りやすいのだ。

劇団四季はスター主義を採らない。僕はこのことを好ましく思う。芸術集団としての共通メソッドを確立して台詞、歌唱、ダンス等の質を担保し、どの配役でも演者が高い水準を保つことでスター主義に頼らない。経営的にも多数の専用劇場と地方公演を維持することができる。

商業的に成功している劇団四季。新しいレパートリーに莫大な資金を投入しているのは〝バケモノの子〟を観ればよくわかる。

このように、劇団四季のミュージカルを浅利慶太の遺産の継承という視点をもって鑑賞するのもあり、と思う。f:id:kuroyurihaze:20240329235059j:image