クロユリハゼの休日

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# 250 思い出の潟分校

昭和49年(1974)に廃校となった秋田県田沢湖町立生保内小学校潟分校、地元民の努力によって修復され〝思い出の潟分校〟として公開されている。

f:id:kuroyurihaze:20231111134631j:image木造校舎は昭和の小学校そのまま。教室には石炭ストーブ、窓の外に伸びる煙突。廊下の窓を通して見える晩秋の景色も昭和そのまま。f:id:kuroyurihaze:20231111135012j:image

こうした木造校舎の景色は僕にとっても無縁ではない。

 

昭和39年(1964)に僕はすべて木造校舎の堺市立南八下小学校に入学した。堺市に合併する前の南八下村の〝村の小学校〟の姿のままだった。すべて木造平屋の校舎と木造の講堂が校庭を取り囲んでいた。講堂はその名の通り、体育館ではなく、集会や式典に使われた。児童急増期には区切られて教室に転用された記憶がある。講堂の舞台奥には戦前に使われた御真影をおさめる場所もあったと思う。校門のそばには例の二宮尊徳像もあった。冬は、〝思い出の潟分校〟と同じように石炭ストーブが使われていた。教室も廊下も板敷で、大掃除の時には油びきをした。

〝思い出の潟分校〟に懐かしいものが。

f:id:kuroyurihaze:20231111141251j:image授業の始まりと終わりに鳴る手動の鈴(チャイム?)南八下小学校でも入学当初は用務員のダイモンさんが鳴らしていた。ダイモンさんは用務員室で犬も飼っていた。なんとものんびりした時代。

南八下小学校の校庭(運動場とは呼ばない。)には校歌にも歌われる栴檀(せんだん)の大木が三本あった。運動会の徒競走用のトラックは栴檀の大木を廻ったように思う。f:id:kuroyurihaze:20231111142511j:image↑南八下校区自治連合会HPから。栴檀の大木の向こうの建物が講堂。

児童急増に伴って南八下小学校は僕が在学中に激変した。隣地の農地に校地拡張され校庭は運動場に、木造校舎も順次取り壊され鉄筋コンクリート校舎になった。校庭の栴檀の大木も伐採された。なぜか僕は栴檀の伐採現場に立ち会っている。課業中ではなかったはずなので、伐採の情報を聞いてわざわざ見に行ったようだ。小学校の象徴でもあった栴檀の木、その最期を見届けた思い出。

 

※秋田山旅、お目当ての秋田駒ヶ岳は登山口までの道がすでに冬季通行止め。観光地も多くは冬支度で閉まっていた。

・一日目:秋田県立美術館、角館武家屋敷

・二日目:玉川温泉、抱返り渓谷

・三日目:乳頭温泉郷ブナ林、田沢湖

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