クロユリハゼの休日

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# 252 君たちはどう生きるか

【うた詠み】

まどろみは枕の底に沈みたり夢のあとさき掴む能わず

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5、6年前だろうか、放課後デイサービスの高校生が「これ、おもしろいで。」と一冊の本を見せてくれた。↓

f:id:kuroyurihaze:20231210204814j:image吉野源三郎著〝君たちはどう生きるか

「えっ、吉野源三郎の?」

子どもの頃、読んだ覚えがあるが随分昔の著作のはず。何故に今?

ほどなく、漫画本として出版されて若者によく読まれていると知った。しばらくして僕も読んでみた。〝コペルくん〟を懐かしく思い出した。やはりあの〝君たちはどう生きるか〟だったが、どうして今、若者たちが共感するのかよくわからなかった。戦前の旧制高校教養主義みたいなものが色濃く出ていて、そこが新鮮に受け取られたのだろうか。少年の悩みに応える〝先生〟が羅針盤のように行き先を示唆すること、そんな〝先生〟のような大人への憧れもあるのだろうか。

 

そして今年、またしても〝君たちはどう生きるか〟、である。↓

f:id:kuroyurihaze:20231210210427j:image宮崎駿監督作品。教養主義的なタイトルとどうとり結んだ映画なのか、ひと月ほど前に観てきた。タイトルは吉野源三郎の著作そのものから来ていることは映画の中で確認できる。亡き母から少年へ贈られた本として登場し、少年が涙ながらに読むシーンが一つの断片として描かれる。

この映画、宮崎監督の人生の中の夢の断片の集積のような作品。夢といっても、まどろみの中で辛うじて掴み取った妄想のような記憶のような断片ばかりだが、人は誰もがまどろみの中の夢の断片のようなもので人生を支えられているような気もする。

映画は〝あの世〟と〝この世〟を少年が往還する物語。〝あの世〟は宮崎監督がまどろみの中で掴んだ断片が散りばめられている。〝この世〟のリアルはアオサギの姿で象徴されるが、まもなくアオサギは変奏を繰り返して物語の舞台まわしとして扱われる。

〝あの世〟は、死後の世界であり、生前の世界でもあり、いのちの原形が時間を超越して〝あの世〟の内側で自由に往還する。亡き母は少女として少年の前に現れ、しかも母として振る舞う。また、母の妹である義母はいのちを授かって妊婦となるのだが、いのちを保ったまま〝あの世〟へ里帰りのような形で出かけていく。少年は義母を〝この世〟へ戻す〝使命感〟をなんだかわからないままにも正しい行いと信じて〝あの世〟への冒険に突入する。

〝あの世〟〝この世〟とは、僕の捉え方だが、宮崎監督の中には仏教的な輪廻の思想があるように感じる。ただし、〝あの世〟は極楽ではなく、もっと不安定で混沌としていて、実際に最後は〝将軍〟(これもアオサギと同様に鳥、オウムの化身)によって崩壊させられる。〝この世〟と〝あの世〟の出入口は無数にあり、少年の開けるべき出入口は、亡き母(少女)によって導かれ、少年は〝いのち〟を抱えた義母を〝この世〟へと連れ帰って物語は終わる。(亡き母にも開けるべき出入口がありその扉から去っていく。それはまた別の世界なのか?)

 

吉野源三郎君たちはどう生きるか〟と直接関連する場面としては、戦争で疎開し転校した学校で〝いじめ〟にあうところか。少年が自傷したり、父が軍需工場で儲けたり、矛盾を提示するところが関係しているかもしれない。

 

 

 

冒頭の【うた詠み】

まどろみは枕の底に沈みたり夢のあとさき掴む能わず

 

短歌としてはいささか自信はないが、まどろみの中に現れる不可解なストーリーや設定の夢の断片を集めれば、自分なりの〝君たちはどう生きるか〟ができるような気もする。