…もう三十年あまり前、娘が生まれて智恵子と名付けた。〝じゃりん子チエ〟の響き、加えて、〝智恵子抄〟の影響も少しはあったと思う。
福島山旅の一日目、天候が思わしくなかったので、二本松にある〝智恵子抄〟の高村(長沼)智恵子の生家を訪ねた。
安達太良山と阿武隈川に挟まれた二本松で酒造業を営んでいた智恵子の生家は記念館を併殺して公開されていた。
折しも、〝智恵子生誕祭〟が開催されていて、普段は非公開の二階にあった居室も公開されていた。
そして、〝智恵子の紙絵体験〟と題して、地元和紙工房によるワークショップを開催していたので体験してみた。
初めて知ったのだが、智恵子は大学卒業後に画家を目指していて、女性の自立をめざした平塚雷鳥らによる機関誌〝青鞜〟創刊号の表紙絵(歴史教科書にも載っていた)もデザインしていた。女性の地位が低かった当時、画家を目指した智恵子が〝青鞜〟と関わっていたことは興味深い。
智恵子の油絵作品はアトリエが戦災に遭い、三点しか現存しない。(記念館に展示あり。)
智恵子は精神を病んで度々ふるさとの二本松に帰って静養した。そして、東京の病院でも紙を切り抜いて貼り付けデザインした切り抜き絵を多数製作したという。(千数百点が現存。記念館に展示あり。)光太郎は、それらを〝紙絵〟と呼んだ。
〝智恵子の紙絵体験〟は、智恵子のデザインによる紙絵をカッターや鋏を使って体験するワークショップ。和紙工房のスタッフが庭に面した生家の座敷で準備してくれていた。この日は風が強く、ときおり縁側から風が舞い込んできて、切り抜いた和紙のパーツが飛ばないように押さえながらも静かなひとときを過ごした。
智恵子の〝紙絵〟デザインはとてもシンプルで、熊谷守一を思わせる。熊谷守一の影響があったのかどうか、年譜を読むと実際に熊谷守一との接点はあったようだ。
生家の裏に続く鞍石山は智恵子◦光太郎が二人で登ったとされ、光太郎の詩碑や散策路、展望台など〝智恵子の杜〟として整備されていた。ここも小一時間散策した。(あいにく安達太良山は雲の中。)
福島山旅一日目。智恵子の生家・記念館・智恵子の杜を後にして、裏磐梯に移動。五色沼散策。
二日目。裏磐梯は雨の中、五色沼散策と雄国沼トレッキング。下山後、諸橋近代美術館〝ダリとハルトマン〟展。
三日目。安達太良山登山。やっと青空が見えた。安達太良山下山後、二本松城跡にある安達太良山を望む光太郎の詩碑を訪ねて福島山旅を終えた。
〝あれが 阿多多羅山 あのひかるのが 阿武隈川〟
〝阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だという〟