クロユリハゼの休日

やま とり うた みる きく よむ うみ など

# 253 バビ・ヤール

〝バビ・ヤール〟はウクライナ、キーウ近郊の地名。ナチス・ドイツユダヤ人虐殺を行った場所だそう(当時はソ連領)。この地を訪れたソ連の詩人が〝全ての反ユダヤ主義者〟を告発する詩を発表した。感激したショスタコーヴィチはその詩を用いて交響曲第13番を創作した。

 

ややこしいのは、〝全ての反ユダヤ主義者〟の中にソ連政府が含まれていることで、つまり、この交響曲は体制批判の意味合いを持つということである。

 

全5楽章からなる交響曲は、すべての楽章でバス独唱と男声合唱が〝バビ・ヤール〟を含む五つの詩を歌い継いでいく。特徴的なのは男声合唱が全てユニゾンで歌われること。ショスタコーヴィチは体制批判を表現するために骨太の男声を採用したのだろうか。書道のように、そして太筆で墨書するかのように、音楽は進んでいった。

 

昨日、井上道義指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でこの〝バビ・ヤール〟の演奏を聴いた。井上道義は今年いっぱいで指揮者を引退すると表明。井上道義の大フィル定期での演奏は今回が最後になる。

 

特筆すべきは、男声合唱に世界最高峰の男声合唱団といわれるスウェーデンの〝オルフェイ・ドレンガー〟を招いていたこと。(総勢60名!)(随分前に〝オルフェイ・ドレンガー〟の来日公演を聴きに行ったことがある。)

巨体から人間離れしたパワーで朗々と歌うロシア人バス歌手と共に最高の布陣での〝バビ・ヤール〟だった。

 

これだけの布陣を敷くには移動・滞在費用も尋常でないはず。声楽陣は井上道義の意向であることは間違いない。彼ほどの指揮者になると〝バビ・ヤール〟演奏のためだけにスウェーデンから〝ドルフェン・ドレンガー〟を呼べるんだ…と、感心してしまった。(後でわかったことだが、井上道義は大フィル定期の前に東京でN響と同じプログラム、同じ布陣で演奏会を開いていた。二つの楽団と各種助成金で費用を賄ったと思われる。)指揮者はプロデューサーでもある、…まざまざと感じた。

 

演奏されることの稀なショスタコーヴィチの〝バビ・ヤール〟。ショスタコーヴィチ演奏に定評のある井上道義の指揮による〝バビ・ヤール〟。

 

忘れられない演奏会になりそうだ。

 

因みに、

ウクライナパレスチナで進行中の悲劇とタイミングを合わせたようなプログラムだが、今回の演奏会の企画はウクライナ戦争勃発より前、数年前から動き出していたとのこと。

 

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# 252 君たちはどう生きるか

【うた詠み】

まどろみは枕の底に沈みたり夢のあとさき掴む能わず

……………………………………………………………

5、6年前だろうか、放課後デイサービスの高校生が「これ、おもしろいで。」と一冊の本を見せてくれた。↓

f:id:kuroyurihaze:20231210204814j:image吉野源三郎著〝君たちはどう生きるか

「えっ、吉野源三郎の?」

子どもの頃、読んだ覚えがあるが随分昔の著作のはず。何故に今?

ほどなく、漫画本として出版されて若者によく読まれていると知った。しばらくして僕も読んでみた。〝コペルくん〟を懐かしく思い出した。やはりあの〝君たちはどう生きるか〟だったが、どうして今、若者たちが共感するのかよくわからなかった。戦前の旧制高校教養主義みたいなものが色濃く出ていて、そこが新鮮に受け取られたのだろうか。少年の悩みに応える〝先生〟が羅針盤のように行き先を示唆すること、そんな〝先生〟のような大人への憧れもあるのだろうか。

 

そして今年、またしても〝君たちはどう生きるか〟、である。↓

f:id:kuroyurihaze:20231210210427j:image宮崎駿監督作品。教養主義的なタイトルとどうとり結んだ映画なのか、ひと月ほど前に観てきた。タイトルは吉野源三郎の著作そのものから来ていることは映画の中で確認できる。亡き母から少年へ贈られた本として登場し、少年が涙ながらに読むシーンが一つの断片として描かれる。

この映画、宮崎監督の人生の中の夢の断片の集積のような作品。夢といっても、まどろみの中で辛うじて掴み取った妄想のような記憶のような断片ばかりだが、人は誰もがまどろみの中の夢の断片のようなもので人生を支えられているような気もする。

映画は〝あの世〟と〝この世〟を少年が往還する物語。〝あの世〟は宮崎監督がまどろみの中で掴んだ断片が散りばめられている。〝この世〟のリアルはアオサギの姿で象徴されるが、まもなくアオサギは変奏を繰り返して物語の舞台まわしとして扱われる。

〝あの世〟は、死後の世界であり、生前の世界でもあり、いのちの原形が時間を超越して〝あの世〟の内側で自由に往還する。亡き母は少女として少年の前に現れ、しかも母として振る舞う。また、母の妹である義母はいのちを授かって妊婦となるのだが、いのちを保ったまま〝あの世〟へ里帰りのような形で出かけていく。少年は義母を〝この世〟へ戻す〝使命感〟をなんだかわからないままにも正しい行いと信じて〝あの世〟への冒険に突入する。

〝あの世〟〝この世〟とは、僕の捉え方だが、宮崎監督の中には仏教的な輪廻の思想があるように感じる。ただし、〝あの世〟は極楽ではなく、もっと不安定で混沌としていて、実際に最後は〝将軍〟(これもアオサギと同様に鳥、オウムの化身)によって崩壊させられる。〝この世〟と〝あの世〟の出入口は無数にあり、少年の開けるべき出入口は、亡き母(少女)によって導かれ、少年は〝いのち〟を抱えた義母を〝この世〟へと連れ帰って物語は終わる。(亡き母にも開けるべき出入口がありその扉から去っていく。それはまた別の世界なのか?)

 

吉野源三郎君たちはどう生きるか〟と直接関連する場面としては、戦争で疎開し転校した学校で〝いじめ〟にあうところか。少年が自傷したり、父が軍需工場で儲けたり、矛盾を提示するところが関係しているかもしれない。

 

 

 

冒頭の【うた詠み】

まどろみは枕の底に沈みたり夢のあとさき掴む能わず

 

短歌としてはいささか自信はないが、まどろみの中に現れる不可解なストーリーや設定の夢の断片を集めれば、自分なりの〝君たちはどう生きるか〟ができるような気もする。

 

 

 

 

 

# 251 ウォークラリー

先日、鈴鹿山系、鎌ヶ岳に登った。以前、入道ヶ岳から見た鎌ヶ岳は北アルプスの槍ケ岳のようでカッコよかった。武平トンネル(三重県側)に駐車して武平峠から稜線を歩く最短コース。強風注意報が発令されていて、稜線では滋賀県側からの風が強くコンディションは悪かった。

f:id:kuroyurihaze:20231128110330j:image山頂直下の岩場は滋賀県側を巻いて山頂へ。御在所岳や雨乞岳、四日市方面、伊勢湾が見渡せて展望を楽しめた。一般コースだが、思いのほか足場が悪い箇所があり少し緊張した。

最短コースをとったので正午には下山、小雨模様だがせっかくなので湯ノ山温泉で日帰り入浴することに。鈴鹿スカイライン沿いにある〝希望荘〟で温泉に浸かった。f:id:kuroyurihaze:20231128112238j:image

〝希望荘〟は40年近く前に勤務していた中学校の宿泊行事で利用した思い出の宿舎。今思うとなかなかアクティブな内容で、メインは二日目、先輩教師が企画した御在所岳登山(裏道から山頂、下山はロープウェイ)で、初日は希望荘で昼食をとった後に山麓を巡るウォークラリーの企画を僕が担当した。

ウォークラリーは、各グループがコース上に何箇所か設けられたチェックポイントでクイズに答え、設定されたペースにできるだけ近い速度で歩く。非公表の設定タイムに近いほど得点が高く、クイズの得点との総合点を競うもの。既存のウォークラリーのコースがあるわけでなく、〝希望荘〟を起点にしたハイキングコースを利用した。そのため、コースの正確な距離を知る必要があったので、下見では〝希望荘〟のスタッフ(支配人?)の瀬古さんが地元の消防署から借りてくれた〝コロコロ測量計〟を使ってコースの総距離を測った。

さて、本番当日。担当の僕は先発してチェックポイントや道標を設置して希望荘に向かっていたのだが、後方から生徒達の声が聞こえてきた。

速すぎる!

設定ペースを無視し勝負を度外視したグループが迫ってきていたのだ。慌てて僕もスピードを上げて〝希望荘〟に到着してゴール係に早変わり。まもなく先頭グループがゴールした。勝負を度外視した数グループ、ゴールを急いだ理由があった。ウォークラリーをゴールしたグループから温泉入浴することにしていたので、ウォークラリーの成績より温泉入浴を優先したグループが現れたのだ。全くの想定外だった。一方で野いちごを食べながらのんびり歩くグループもあり、そんなこんなのウォークラリーは無事終了したのだった。f:id:kuroyurihaze:20231128120659j:image

# 250 思い出の潟分校

昭和49年(1974)に廃校となった秋田県田沢湖町立生保内小学校潟分校、地元民の努力によって修復され〝思い出の潟分校〟として公開されている。

f:id:kuroyurihaze:20231111134631j:image木造校舎は昭和の小学校そのまま。教室には石炭ストーブ、窓の外に伸びる煙突。廊下の窓を通して見える晩秋の景色も昭和そのまま。f:id:kuroyurihaze:20231111135012j:image

こうした木造校舎の景色は僕にとっても無縁ではない。

 

昭和39年(1964)に僕はすべて木造校舎の堺市立南八下小学校に入学した。堺市に合併する前の南八下村の〝村の小学校〟の姿のままだった。すべて木造平屋の校舎と木造の講堂が校庭を取り囲んでいた。講堂はその名の通り、体育館ではなく、集会や式典に使われた。児童急増期には区切られて教室に転用された記憶がある。講堂の舞台奥には戦前に使われた御真影をおさめる場所もあったと思う。校門のそばには例の二宮尊徳像もあった。冬は、〝思い出の潟分校〟と同じように石炭ストーブが使われていた。教室も廊下も板敷で、大掃除の時には油びきをした。

〝思い出の潟分校〟に懐かしいものが。

f:id:kuroyurihaze:20231111141251j:image授業の始まりと終わりに鳴る手動の鈴(チャイム?)南八下小学校でも入学当初は用務員のダイモンさんが鳴らしていた。ダイモンさんは用務員室で犬も飼っていた。なんとものんびりした時代。

南八下小学校の校庭(運動場とは呼ばない。)には校歌にも歌われる栴檀(せんだん)の大木が三本あった。運動会の徒競走用のトラックは栴檀の大木を廻ったように思う。f:id:kuroyurihaze:20231111142511j:image↑南八下校区自治連合会HPから。栴檀の大木の向こうの建物が講堂。

児童急増に伴って南八下小学校は僕が在学中に激変した。隣地の農地に校地拡張され校庭は運動場に、木造校舎も順次取り壊され鉄筋コンクリート校舎になった。校庭の栴檀の大木も伐採された。なぜか僕は栴檀の伐採現場に立ち会っている。課業中ではなかったはずなので、伐採の情報を聞いてわざわざ見に行ったようだ。小学校の象徴でもあった栴檀の木、その最期を見届けた思い出。

 

※秋田山旅、お目当ての秋田駒ヶ岳は登山口までの道がすでに冬季通行止め。観光地も多くは冬支度で閉まっていた。

・一日目:秋田県立美術館、角館武家屋敷

・二日目:玉川温泉、抱返り渓谷

・三日目:乳頭温泉郷ブナ林、田沢湖

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# 249 鈴鹿 竜ヶ岳

鈴鹿の山に少しずつ登ってきた。

御在所岳、御池岳、綿向山、入道ケ岳、藤原岳

この春、藤原岳から見た竜ヶ岳、次はこの山と決めていた。f:id:kuroyurihaze:20231105100218j:image

 

その前に、

藤原岳の麓でヒルの研究をしている子ども達の記録が本になっている。藤原岳に登る前に図書館で借りて読んでいた。f:id:kuroyurihaze:20231105100141j:image

本の宣伝文。↓

〝嫌われ者の「ヤマビル」の研究に
愛をもって取り組む子どもたちが常識に挑む物語。「好奇心が未知の扉を開ける衝撃が満載だ」 山極壽一先生激賞!

各地で増え続けているヤマビル。山だけでなく里でも被害が増えています。知らない間に血を吸う嫌われ者のヤマビル。
そんなヤマビルの生態研究に挑む小中学生がいます!  その名も子どもヤマビル研究会。

彼らは、山でヤマビルの数を数え、ときに自らの血を吸わせて育て、そして、解剖までするのです。そんな彼らが解き明かしてきたヤマビルの生態の数々を紹介します。

そして、「ヤマビルはとてもかわいいいきものです」とまで言い切る、いきいきとした子どもたちの感受性に驚嘆する1冊です。〟

 

さて、

竜ヶ岳の上部の笹原にはシロヤシオの群落があり、開花の季節には〝草原に遊ぶ白い羊の群れ〟に見えるという。

その季節はヤマビルの活動が活発になる時期らしい。〝どうぞわたしの血を吸って下さいな〟という度量は僕にはない。ヤマビル研究の本を読んだせいで、むしろ、ヒルに血を吸われたくない気持ちが増してしまった。

ヒルの忌避剤を製造販売している方が子ども達の研究をサポートしてしていて、その製品がこれ。↓

f:id:kuroyurihaze:20231105101157j:imageヒル下がりのジョニー〟、買ってしまった。

しかし、〝白い子羊の群れ〟の時期は、体調不良や天候の巡りが悪く竜ヶ岳には登れなかった。

 

秋、シロヤシオは紅葉して〝紅い子羊の群れ〟になるという。ヤマビルの活動も止む季節だ。

竜ヶ岳登山を決行。

宇賀渓登山口から登りは遠足尾根をとる。〝遠足〟の気軽さとは無縁の植林の中の急登が連続するコース。植林を抜けるとウバメガシ、アセビなど植生が変化して笹原のたおやかな稜線になる。f:id:kuroyurihaze:20231104121706j:imageシロヤシオの紅葉はすでに終わっている。山頂も広い笹原。休日で大勢の登山者が昼食で寛いでいた。f:id:kuroyurihaze:20231105102515j:image
f:id:kuroyurihaze:20231105102512j:image下山は金山尾根をとる。痩せ尾根の急坂が続き膝が震えてきた。前週の八経ヶ岳で膝痛が悪化し、溜まった水を整形外科で抜いてもらいヒアルロン酸注射の治療が始まっている。なんとか尾根を下りきって、林道をとぼとぼ登山口まで戻った。

 

鈴鹿の山、次は鎌ヶ岳か釈迦ヶ岳かな。

 

 

# 248 アカククリ

安野光雅展[@ハルカス美術館]

招待券を頂いたので観に行った。

安野光雅の名を聞くと必ず思い出すことがある。…絵とは関係ない話。

沖縄の海に潜っていた頃、何度かアカククリという魚に出会った。こんな魚。↓

f:id:kuroyurihaze:20231031145045j:image体長30cmで割と大きなおさかなだ。ダイビングログ(記録)を見直すと2004,05,06年に慶良間で、2014,19年に水納島の海で出会っている。慶良間の魚礁ポイントではコンクリートの魚礁の中を数尾のアカククリが静かに群れて漂っていた。アカククリという魚名については深く考えることはなかった。

ある日の新聞コラムで〝わたしは魚の名付け親〟というのが目にとまった。発信者は安野光雅さん。そのコラムで、アカククリの名付け親は安野光雅さんご自身と告白(?)されていたのだ。

その経緯は、

絵本作家になる前から本の装丁など出版に関わるお仕事をされていた安野さん。ある時、魚類学者の魚類図鑑出版をお手伝い(デザイン)することになった。魚類学者さんはあちこちの海に潜って新種を発見されていて、図鑑に載せるために名前をつけなければならなかった。…で、仲良しになった安野光雅さんに〝君、この魚の名前を考えて〟みたいなことがあったそう。4種ほど名付けた魚のうちの一種がアカククリというわけ。

〝アカククリ〟というのは印刷業界の業界用語で、文字のアウトラインを赤く囲む作業を指す言葉、すなわち〝赤括り〟だそうだ。

安野光雅さんはアカククリの幼魚の姿から〝アカククリ〟と名付けたのだ。その幼魚の姿がこれ。体長3cm↓f:id:kuroyurihaze:20231031152231j:image真っ黒な身体が見事に赤線でくくられている。毒をもつヒラムシに擬態しているらしい。魚類の仲間は幼魚と成魚で大きく姿を変えることが珍しくない。〝アカククリ〟のようにインパクトの強い幼魚も多いので、〝幼魚図鑑〟という図鑑があるほどだ。

残念ながら僕は〝アカククリ〟幼魚に出会ったことはないが、有名な幼魚なので一応は知っていた。たしかに成魚の姿からこの名前は想像できない。

 

※追記:この話題、以前も書いていました。

     すっかり忘れてる。^^;

しかも、アカククリ幼魚、一回だけ会ってました。2002年9月15日(水納島

   

       ま、いいか。

 

 

安野光雅展の最後の方で本の装丁や演劇ポスターの展示があった。全て井上ひさしに関わるもの。安野光雅井上ひさしが盟友とは初めて知った。見覚えのある本がいくつか。井上ひさしが座付き脚本家だった〝こまつ座〟の宣伝美術も担当していたとのこと。昔、〝こまつ座〟の公演を何度か観に行ったので安野光雅のポスターも見ていたかもしれない…。

覚えてないけど…。

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↑本棚を探したら出てきた。筑摩書房宮澤賢治全集(文庫版)の装丁もすべて安野光雅だった。

# 247 堺短歌大会

堺市民芸術祭の文芸部門、堺短歌大会に参加した。(10/28)

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主催の堺歌人クラブの呼びかけに応じて8月に三首を投稿した。堺市民でなくても応募できる。堺市民芸術祭は堺市の後援があり、この短歌大会の堺市長賞は市長名の賞状が授与されていた。ただ、聞くところによると、市長が変わってから芸術祭への財政上の支出がカットされた(古墳の上空に気球を上げるため?)ので、芸術祭へ参加する各団体は大変だそう。短歌大会も会場費や講師や撰者への謝礼などなど、経費を補うためにも活発な投稿を呼びかけておられたのだ。(僕の場合、三首投稿で二千円の参加費。)市の文化祭的なイベント、他の自治体では財政からの支援はどうなっているんだろう。

今日の講師は歌人の真中朋久氏。講演の演題は「短歌と自然災害」。なんだか変わったテーマだと思っていたが、講師が気象予報士ということで納得。予報や台風、水害などを詠んだ短歌を、時代背景や歌人の具体的なエピソードを交えながら紹介されていた。

 

講演の後に、撰者による受賞作や応募作へのコメントがあった。これがとても勉強になる、というか、感心する。撰者をつとめる歌人というのは作品の読みが速いし深い。語り口も優しくとてもわかりやすく伝えてくれた。(奈賀美和子氏と藤田千鶴氏)

 

さて、

僕の投稿歌は次の三首。この夏のスウェーデン滞在中に詠んだもの。

・赤茶けた鉱石の色で染めらるる家建ち並ぶファールンの街

 

・衛兵に女性のありて号令はひときわ高く響き渡れり  [堺市文化団体協議会賞]

 

・教会に王家の棺は並びたる幼な子のそれ小さく置かれて

 

一首目はダーラナ地方の銅山の街ファールン。ファールン銅山は世界遺産。銅鉱石からとられた染料で塗られた木造家屋が多い地方だ。

二首目はストックホルムの旧市街(ガムラスタン)にある王宮前広場、衛兵交代の場面。スウェーデンは今も王制。

三首目もストックホルム、旧市街に隣接するリッダーホルム教会。王家の大小の棺が納められており重苦しく、息苦しいくらいだった。

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堺といえば歌人与謝野晶子を生んだ街。短歌大会を開催するに相応しい街ともいえる。

与謝野晶子の〝君死にたまふことなかれ〟を知ったのは中学生か小学高学年の頃。七五調で畳み掛ける反戦歌に興奮した思い出がある。特にこの部分。

〝君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。〟

 

五七五七七、短歌の表現形式が僕にはちょうど良い。このブログで時々お伝えしてみよう。